聖書はユーモアに溢れている。マンガを読むなら聖書を読もう。

貴方に天国から降り注がれる芸術を

この世の中にはマンガやアニメやゲームやスポーツ観戦など様々な娯楽がありますが、それらは全て悪魔的で不潔なもので満ち溢れています。

それらを見ているときは楽しくておもしろいかもしれませんが、終わってみると何も残っておらず、ただ空しさだけが待っています。

つまり、それだけ時間を無駄にして、自分の霊魂が満足できず、苦しんでいるのです。

例えば、ある人気のスポーツ選手が1位になったからといって、一体、我々に何の有益があるというのでしょうか。

その選手は1位になって嬉しいかもしれませんが、我々は何も変わっておらず、1位にもなっていないのです。

どうしてそれで喜ぶことができるのでしょうか。

自分は何も変わっていないのに、まるで自分が1位になって栄えたかのように錯覚している…。

こんなもの全く見る意味もないし、喜ぶ意味もありません。

サタンに感情をコントロールされ、時間をコントロールされ、終わるだけです。

終わったあとは何も残っていません。

サタンと聞くと、空想話のように聞こえるかもしれませんが、実際にサタンはいます。

キリスト教は悪魔崇拝者によって内部から破壊された。その歴史の詳細について。

イルミナティに関する幾つかの考察。

悪魔崇拝についての幾つかの考察(1)

悪魔崇拝についての幾つかの考察(2)

悪魔崇拝はあるのか? エリザベス女王とローマ法王による5万人の幼児虐殺事件について。

聖書にもサタンの存在がはっきりと書かれてあります。

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(マタイによる福音書4章1〜11節)

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。 『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

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(マルコによる福音書8章33節)

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

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(ルカによる福音書22章1〜6節)

さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

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サタンは我々の時間をいつも奪おうとします。時間を無駄にして我々を堕落させようとするのです。

一分は60秒で、一時間は60分、秒にすると3600秒、一日は24時間で、分にすると1440分、秒にすると86400秒です。

そして、これら6つの数字をそれぞれ足すと、左から順に、6、6、9、6、9、18となります。

さらに、一分、一時間、24時間の秒を全部足してみると、60+3600+86400=90060で、この数字をそれぞれ足すと、9+0+0+6+0=15で、さらに足すと1+5=6となります。

そう、どこまでも時間に6がつきまとっているのです。(9を逆さにすると6、6が三つで18)

そして、ご存知の方も多いと思いますが、聖書では6は悪魔の数字として出てきます。

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(ヨハネの黙示録13章15〜18節)

第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。 そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。 ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。

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つまり、何も考えずに時間を無駄に使うということは、その分、時間をサタンに明け渡すということであり、自分の人生をサタンに捧げるということになってしまうわけです。

自分の人生の金にも勝る貴重な時間が、そのような何の役にも立たないものに奪われてしまうのです。

我々が天の文化芸術を成して新しいものを創造し、この世で頭角を現すことができないように、サタンは我々に対して様々な妨害をしてくるのです。

だから、そんなくだらないものに時間を費やすのではなく、真に有益なもの、聖書を読むことに時間を費やそうではありませんか。

聖書を読めば、神様を近くに感じるようになり、信仰が強くなります。

聖書朗読のススメ。聖書を読めば有能になる。

そうすると、無駄なところに時間を使うことが嫌になってくるので、有益なことだけを行うようになり知能が上がります。

「聖書は難しくて嫌だ」と思う人がいるかもしれませんが、決して、そんなことはありません。

聖書はユーモアに溢れたおもしろい書物です。

それこそマンガやアニメなどには、聖書の内容を一部真似たり、改変したりしたようなものもあるため、マンガやアニメが好きな方は、聖書を読んでみて、親近感が湧く人もいるかもしれません。

なので今回は、私がおもしろいと思った聖書の箇所を一部ご紹介したいと思います。

きっと、続きが気になるような内容だと思いますよ。

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(使徒言行録20章7〜12節)

パウロ、若者を生き返らせる

週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。

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(コリントの信徒への手紙二10章1〜6節)

パウロの誇り

さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。 わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。

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(エレミヤ書1章11〜14節)

主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる この地に住む者すべてに。

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(ヨブ記13章1〜22節)

そんなことはみな、わたしもこの目で見 この耳で聞いて、よく分かっている。あなたたちの知っていることぐらいは わたしも知っている。あなたたちに劣ってはいない。わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。あなたたちは皆、偽りの薬を塗る役に立たない医者だ。どうか黙ってくれ 黙ることがあなたたちの知恵を示す。わたしの議論を聞き この唇の訴えに耳を傾けてくれ。神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り 欺いて語るのか。神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか。人を侮るように神を侮っているが 神に追及されてもよいのか。たとえひそかにでも、へつらうなら神は告発されるであろう。その威厳は、あなたたちを脅かし恐れがふりかかるであろう。あなたたちの主張は灰の格言 弁護は土くれの盾にすぎない。

黙ってくれ、わたしに話させてくれ。どんなことがふりかかって来てもよい。たとえこの身を自分の歯にかけ魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。このわたしをこそ 神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら御前に出るはずはないではないか。よく聞いてくれ、わたしの言葉を。わたしの言い分に耳を傾けてくれ。見よ、わたしは訴えを述べる。わたしは知っている、わたしが正しいのだ。わたしのために争ってくれる者があればもはや、わたしは黙って死んでもよい。

ただ、やめていただきたいことが二つあります 御前から逃げ隠れはいたしませんから。わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。

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(イザヤ書44章15〜20節)

木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め 一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし 肉を食べようとしてその半分の上であぶり 食べ飽きて身が温まると「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず 心もふさがれていて、目覚めることはない。反省することもなく、知識も英知もなく「わたしは半分を燃やして火にし その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり 木の切れ端を拝んだりできようか」とは言わない。彼は灰を食らい 惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とすら言わない。

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(マルコによる福音書11章27〜33節)

権威についての問答

一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

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(マタイによる福音書3章7〜10)

ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

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(詩編40章12〜18節)

主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく 慈しみとまことによって いつもわたしをお守りください。

悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ 何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く わたしは心挫けています。主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。

わたしの命を奪おうとねらっている者が 恥を受け、嘲られ わたしを災いに遭わせようと望む者が 侮られて退き わたしに向かってはやし立てる者が 恥を受けて破滅しますように。

あなたを尋ね求める人が あなたによって喜び祝い、楽しみ 御救いを愛する人が 主をあがめよといつも歌いますように。

主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。

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(箴言1章7節)

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

(箴言4章20〜27節)

わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり全身を健康にする。何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに まなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら あなたの道は常に確かなものとなろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。

(箴言8章4〜13節)

「人よ あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。浅はかな者は熟慮することを覚え 愚か者は反省することを覚えよ。聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし わたしの口の言葉はすべて正しく よこしまなことも曲がったことも含んでいない。理解力のある人には それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には それがすべてまっすぐであると分かる。銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ 精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり どのような財宝も比べることはできない。わたしは知恵。熟慮と共に住まい 知識と慎重さを備えている。主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道 暴言をはく口を、わたしは憎む。

(箴言17章4節、12節、16節、27〜28節)

悪事をはたらく者は悪の唇に耳を傾け 偽る者は滅亡の舌に耳を向ける。

子を奪われた熊に遭う方が 愚か者の無知に会うよりましだ。

愚か者が代金を手にしているのは何のためか。知恵を買おうにも、心がないではないか。

口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある。無知な者も黙っていれば知恵があると思われ 唇を閉じれば聡明だと思われる。

(箴言18章6〜7節)

愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く。愚か者の口は破滅を 唇は罠を自分の魂にもたらす。

(箴言19章3節、5節、9節、24節)

人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。

うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をすれば逃げおおせることはない。

うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をする者は滅びる。

怠け者は鉢に手を突っ込むが 口にその手を返すことすらしない。

(箴言20章3〜4節、13節、20節)

争いにかかわらないのは立派なことだ。無知な者は皆、争いを引き起こす。怠け者は冬になっても耕さず 刈り入れ時に求めるが何もない。

眠りを愛するな、貧しくならぬために。目を見開いていれば、パンに飽き足りる。

父母を呪う者 彼の灯は闇のただ中で消える。

(箴言21章9節、19節、23節)

いさかい好きな妻と一緒に家にいるよりは屋根の片隅に座っている方がよい。

いさかい好きで怒りっぽい妻といるよりは荒れ野に座っている方がよい。

自分の口と舌を守る人は苦難から自分の魂を守る。

(箴言23章3〜9節、22〜26節)

供される珍味をむさぼるな、それは欺きのパンだ。富を得ようとして労するな 分別をもって、やめておくがよい。目をそらすや否や、富は消え去る。鷲のように翼を生やして、天に飛び去る。強欲な者のパンを食べようとするな。供される珍味をむさぼるな。彼はその欲望が示すとおりの人間だ。「食べるがよい、飲むがよい」と言っても 心はあなたを思ってはいない。あなたは食べたものを吐き出すことになり あなたが親切に言ったことも台無しになる。愚か者の耳に語りかけるな あなたの見識ある言葉を侮るだけだから。

父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。神に従う人の父は大いに喜び躍り 知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。父が楽しみを得 あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ。わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ。

(箴言24章33〜34節)

「しばらく眠り、しばらくまどろみ 手をこまぬいて、またしばらく横になる。貧乏は盗賊のように 欠乏は盾を取る者のように襲う。」

(箴言25章16〜19節)

蜂蜜を見つけたら欲しいだけ食べるがよい。しかし食べ過ぎて吐き出すことにならぬように。友人の家に足を運ぶのはまれにせよ 飽きられ、嫌われることのないように。こん棒、剣、鋭い矢 友人に対して偽証を立てる者。悪い歯、よろめく足 苦難の襲うとき、欺く者を頼りにすること。

(箴言26章3〜7節、11〜12節、15節)

馬に鞭、ろばにくつわ 愚か者の背には杖。愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな あなたが彼に似た者とならぬために。愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者だと思い込まぬために。愚か者に物事を託して送る者は 足を切られ、不法を呑み込まされる。愚か者の口にすることわざは 歩けない人の弱い足。

犬が自分の吐いたものに戻るように 愚か者は自分の愚かさを繰り返す。自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。

怠け者は鉢に手を突っ込むが 口にその手を返すことをおっくうがる。

(箴言28章9節)

教えに耳をそむけて聞こうとしない者は その祈りも忌むべきものと見なされる。

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(コヘレトの言葉1章1〜11節)

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。

コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。

太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。

何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず 目は見飽きることなく 耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい。

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(マルコによる福音書16章1〜8節)

復活する

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

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(ヨハネによる福音書21章6〜8節)

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

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(マルコによる福音書4章35〜41節)

突風を静める

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

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このように、聖書は本当におもしろい書物なのです。

しかし、そんな聖書もほとんど比喩で書かれてあるため、何が何だかわけが分からず、途中で読むのが嫌になってくるかと思います。

しかし、心配には及びません。

聖書の解き方とその詳しい内容は既にRAPTブログによって暴かれているので、RAPTブログを読みながら聖書を読めば、つまずくことはありません。

キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。

キリスト教最大のタブーその二。聖書に書かれた奇跡はほとんど奇跡ではない。

Blog by RAPT

なので根気よく聖書を読んでみてください。きっとあなたの人生の答えが見つかると思いますよ。

皆さんに神様からの祝福がありますように、お祈りします。

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